ずいぶん,更新が滞りました。
本当は,「ぷらら」がブログサービスを終了するので,移転の準備もしなければならないのですが, がんばらないといけないですね…。
1 少年事件における,弁護士と裁判官の視点の違い
これまで、刑事事件や少年事件について書くことは控えてきました。 これは、私が原則として「私選」でこれらの事件を受けていないことが理由です。 ただ、先日、付添人の先生と話していて、「裁判官と弁護士の、コミュニケーションギャップ」のようなものを感じましたので、少し書いてみようと思います。
なお、「付添人」というのは,「少年に付き添う人」という意味で,つまるところ『少年事件の弁護人』のことです。 その先生との話の中で感じられたのは、 特に,少年の「反省の中身」についての裁判官と、付添人の求めるものの違い、というものになるかと思います。
2 付添人の視点
「付添人」については,一言でいうと、「少年の味方」ということになると思います。
あくまで少年に寄り添って少年の話を聞き,その話を否定することなく受容し, 少年が裁判官に自分の話を伝える手助けをする,そんなイメージでしょうか。 ですので,事件に対する反省も,その少年の話に基本的には沿うものになります。
ただ、少年自身の話が中心になるので、ともすると「言い訳」のようになってしまい、 周りが悪い、親が悪いという話が多くを占めてしまい、
「君は悪くないの?」
「君は、この事件を行ってしまったわけだけれど、この事件を契機に自分でここを変えなきゃというところはないの?」
と、問い返したい話になってしまうことも有ります。
また、「意思が弱いから」ということを理由に挙げる子もいるのですが、 人間は誰でも意思は弱いものですので、 意思が弱いから事件を起こしてしまいました、というのは、一見耳触りはよいのですが、 よくよく考えると、「人間だから仕方がない」といっているのに近いところもあり、 「自分の何を改めればよいか」ということを考えることを、あきらめることにつながる危険もあるように思われます。 (もちろん、そうとしか言いようのない事件もあると思います。)
3 裁判官の視点
これに対して,「裁判官」は,少年の処遇を考える際に、被害の大きさや事件の悪質性も考えますが、 それと同時に、「被害者」や,被害者も含めた「世間」との関係で, 「どういった処遇(少年院や試験観察等)を与えれば,この子は,もう同じことをしないと思えるか」も、考えに入れる立場になります。
そのため,裁判官によって異なりますが, 少年が述べた反省が,「世間の人から見て、この子が社会に戻ってきていいよ、と納得のいくものなのか」
「被害者の前でも,あるいは被害者の父親。母親の前でも、少年が口にしておかしくないようなものなのだろうか」
そういったことは、大なり小なり考える気がします。
もちろん、被害者の方は、事件直後、非常に強い感情をお持みになられる方も多くいらっしゃいますので、被害者の方に実際に許してもらえないと「反省」として認められないというわけではありません。 しかし、ごく普通の被害者が事件から長い時間がたって過去の振り返りができるころになって、 あるいは「被害者になりうる一般の人」が、仮にそうした少年の話を視覚的に「見る」ことが出来たと仮定して 「これはないだろう」と思う様では、いけないような気はします。
(実際には、被害者が審判を傍聴することは、少年自身の心にあまりに大きなプレシャーを与えてしまい、かえって本音を聞き出すことを阻害する可能性もある等のこともあって、よほどの重罪を除いては、そもそも制度として認められていません。誤解のないように書いておきます。)
3 私なりの方法
私が、少年事件の付添人をするときなどは,少年が述べた反省に対して, こういう問い返しをすることがあります。
「君のお母さんは,君のことをとても心配して会いに来てくれるけれど,被害者の子にもお母さんはいるんだよね。 君が今言ってくれた『反省』を,被害者のお母さんが聞いたら,被害者のお母さんは君を許してくれると思う?」
「君と同じような境遇の子は,君だけだろうか?,他にもいるだろうか?。 他にもいるのならば,事件を起こさない子もいるのに,君が事件を起こしてしまったのは,なんでなのだろうか。 他の子は事件を起こしていないのに君が起こしてしまったのは何でなのか,それが分かっていないと, 裁判官から『どうしたら同じ事件を起こさないようになれるの?』と聞かれたときに、君は答えられるのかな?」
そんなふうにして,とことん少年に話を聞いていってしまうかもしれません。
それがいいのかどうか…。
それでは、「少年が言いたいことも言えなくなってしまう」という弁護士の先生は、結構いらっしゃるかもしれません。
また、その事件の中で、少年の心が解きほぐせるかどうかはわからないから、 「その事件以後も少年と関係を続けていく」ということを前提として、「あくまでも少年のいうことを受容する」という先生も いらっしゃると思います。
ただ,私自身は、いまはそうした考えとは違うスタンスで、付添人活動をしています。
それは、 「その少年のことを,少なくとも自分が納得いくまで聞いて,理解した上でなくて,他人である裁判官や被害者を納得させられるのかな?」 「説明する相手が,『被害者』や『裁判官』,そして『世間』である場合に…,世間や,被害者,裁判官が『どう思うか』ということを考えずに,説明や説得をできるのかな?」 「そうだとすれば,『その説明では世間や裁判官は納得しないかもしれないよ』ということをその子に教えるのは,誰がやることになるのかな?,弁護士のやることにはならないのかな…?」 という「想い」に、目を向けざるを得ないためです。
子どもは大人の嘘を見抜いてくるものだと思っていますから。 「それが,裁判官に対する弁護として必要だ」と私が思うのであれば, 私はそれを,子どもに告げるべきかな,と思ってしまうのですよね…。
もちろん,そういうことを本当に、全てやろうとすると,とても時間と労力がかかるものなので, 私自身がどこまで出来ているかは,正直に言って自信がありません。 また、「付添人がいかにあるべきか」は、弁護士によって考え方が違うところがあり、 「少年が言いたいことを言えるように、あくまで少年を言うことを受け止めてあげるのが付添人」 という考え方も、 「少年がこの事件で正直に話すことが出来なくても、いつか正直に話してくれるチャンスを上げるために、あくまで少年の味方であることが付添人」という考え方も、 それはそれで、一つの正しい考え方だと思います。 ただ、この考え方の中に 「だから少年の反省が不十分でも、大目に見てください」というものが混じってしまうのだとすると、 それは違うことのように思います。 それは…『その言葉が被害者(あるいは世間)に対していうことのできる言葉ではない』からでしょうか。
4 修復的司法:少年が社会に戻っていくための反省を求めて
昔の刑事司法では「反省」はかならずしも重い比重は置かれなかったかもしれませんが、 被害者の立場に立ってみれば、あるいは、社会て生活する一般の方の立場に立ってみれば、 少年事件というジャンルにおいては、とても重要な事に思えるのではないかという気がします。
おそらく、先輩・先達となる弁護士の先生方の中には、日々こうした相克に悩み、それぞれ各先生方なりに、これらを両立させている方も多々いらっしゃるのだろうと思います。
本当に、弁護士というのものも、裁判官というものも、「正解」のない職業だな、と思います。
私は、まだまだ、一つ一つの事件に悩みながら、少年と、また被害者と向き合っていくしかない状態ですね。 道のりは遠いですね…。
本当は、こうした文章を書く資格が私にあるのかというと、それもないのだろうと思うので、書くこともどうなのかという、忸怩ある思いもあります。 いまは、とてもではないですが、1年に1件ほど少年事件をやると、精一杯になってしまいますので…;。
※ 誤字や、書き方のニュアンスなど、幾度が心に染まないところがあり、書き直しもしました。申し訳ありません。
※ その後,ブログ以降に伴い,「改行」がなくなってしまっていたので,見出しを付けるなどの修正を加えました。