【天秤印】春日井弁護士雑記(旧名古屋・横浜弁護士雑記)

現在春日井市に勤めている元裁判官現弁護士が、日々感じたことなどを書いています。

子どもへの関わり:法律家と児童精神科医と教師の立ち位置

1 こころの支援セミナー

昨日,8月9日は,一般社団法人神奈川県精神保健福祉協会主催の,「平成26年度こころの支援セミナー」に参加してきました。

学校関係の方や,子どもの相談機関に所属する方を対象にして,子どもの心の理解について講師の方をお招きして一緒に勉強する会で,昨年度から続けて参加しています。

今年の講師は,神奈川県警察本部少年相談・保護センターの所長と,横浜市北部地域療養センターのSW,そして,横浜市立大学付属病院児童精神科の先生でした。
それぞれ,興味深いお話でしたが,法律家との関わりの違いや,視点の転換を教えて頂けるという点で,児童精神科医の先生のお話が面白かったですね。

印象に残っているのは,「子どもを我々援助者が意味づけることをしない」ということと,「自己完結的に問題を解決しようとしない」ということでしょうか。

2 自己完結的な解決とは?

我々援助者・専門職が,いわゆる「子ども」と接するときには,多かれ少なかれ何らかの「問題」についての訴えがが,本人・家族・関係者からあることが多いのだろうと思います。
しかし,そこに言われる「問題」は,あくまで「その人」の捉えている問題です。

それが「その子ども」の本質的な問題かというと,実は違うこともままあります。
また,何か「問題」があるということになると,我々援助者は「どうしたら解決できるか」とこちらで「解決」を考え,それができれば良しとしてしまうことがあります。例えば,家族から訴えがあったのであれば,その訴えが納まればとりあえずの解決だ…というように。

上の発言は,そうした態度を戒めたものでした。

援助者が解決を設定することが全く不要とまでは思いません。
法律家というのは,あくまで「法律問題を解決する専門家」という背景があるので,「法律問題の解決」から足を踏み外してしまうと,立ち位置が見えなくなってしまうからです。私も,法律的な問題で関わった子どもについては,それが決着した時点で,「お子さんをお返しします。」「後はお任せします。」としてその子を見守っていく家族に後を託すことが普通です。
とはいうものの,「自己完結的な問題の解決」に慣れてしまうと,時と共に変わる子ども自身を見なくなってしまったり,子どもの本質的な問題を見過ごしてしまうということは,あるのかもしれません。子どもに関わる援助職は,そうした危険に常に気をつけなければならないのでしょう。

3 法律学を志したわけ・心理学を志さなかったわけ

この話を聞いていて,昔,法律学を志すことに決めたときのことを思い出しました。

私は,高校2年生までは理系の人間で,漠然と,人を助けるために役立つ薬学のような分野に進んでみたいと考えていました。
しかし,いざ大学を選ぶ段になり,就職において薬学部を出ても新薬の開発研究に携われるわけではないという当たり前の現実に直面し,文系に転向することにしました。
その時迷ったのが,①教育学(教師),②哲学・心理学(臨床心理・児童精神医学),③法律学の3つでした。
実のところ,いざ「文転」を考えるまでは,私自身の読んでいた本は,②に属する本が多く,心理学の入門書,カウンセリングの入門書,実存哲学,仏教についての入門書等を読んでいました。
自分が直面する悩みに対する答えがあるとすれば,そうした書物の中ではないかと考えていたためです(法律学に関する書籍など,せいぜいが漢文の時間の「韓非子」ぐらいでした)。
しかし,進学先としては,②の哲学や心理学を選びませんでした。
哲学や心理学は,「個人としての心の中」の問題を解決することはできるかもしれませんが,例えばいじめやパワハラなどで苦しんだ人が,自分の心を整理して社会に戻れるようになったとしても,戻った先の現実が変わっているわけではなく,解決にならないのではないかと考えたためです。
他方で,①の教師の道も選びませんでした。(担任)教師は40人の生徒と向かい,40人の生徒全員にとって正しいことを言うものであって,個人個人の生徒にとっては最適解ではないことも立場上言うことがあると感じていたためです。
そのため,教師のように「40人の生徒にとって正しい」ことを指導するのではなく,あくまで1人の人間の起こした問題に向き合って「どうしたらよかったか」を考え,かつ,現実を変えていく力を持つ学問として,③の法律学を志しました。

こうした,職選びの時に考えたことと,最初にふれた児童精神科医の先生の言葉を照らし合わせると,児童精神科医・臨床心理士はあくまでその子ども個人に寄り添う専門職であるのに対し,法律家は,社会と個人との間の関係を取り持つ専門職に近いのかもしれませんね。
以前,児童精神科医と法律家の違いでは,子どもに対する関わり方の時間的な違いをブログで書いたことがありましたが,昨日のお話は,また新たな「気づき」を与えてくれました。

4 いじめ自殺という問題における悩み

とはいえ,いま,共同通信大阪社会部の「大津中2いじめ自殺」(PHP新書)を少しずつ読んでいることもあり,心理学的な関わりと,社会的な関わり(司法)との関係で,悩んでしまっています。
読むのが辛い本です。20頁ほど読んでは,手を止めざるを得なくなり,なかなか読み進められません。

この本に書いてあるような出来事,そして関係者の心の叫びや振り返りも見ると,少なくとも,子どもが亡くなられてしまった場合などには,「社会的」な関わりは,不可欠に思えてきます。

その「子ども」への心理的な関わりがもはやできないこともありますし,残された方や他の子どもに与える影響の大きさということもあるからです。

とはいえ,「社会的」な解決がつけば「終わり」と考えてしまうと,それは「自己完結的に解決を考えている」ということになるのでしょうね。


それぞれの関わり方を,どう活かしていけばいいのか。
そんなことを,またこれから悩んでいってみたいと思っています。