【天秤印】春日井弁護士雑記(旧名古屋・横浜弁護士雑記)

現在春日井市に勤めている元裁判官現弁護士が、日々感じたことなどを書いています。

「大津中2いじめ自殺」(共同通信社大阪社会部著。PHP新書)【書評】

1 読み終わって

大津中2いじめ自殺 | 共同通信大阪社会部著 | 書籍 | PHP研究所

やっと,この本を読み終えることができました。
かなり読むのがきつかった本です。
被害者の生徒の日常漏らした言葉,家族の心の動き,先生の心の動き等,かなり迫真性もある描写がされているので,10頁,20頁読み進むごとに,「このとき何かしてあげられなかったのか」「なんで,こういう事になってしまったのか」「ここはどうだったのだろう」などといろいろな気持ちが沸いてきて,いたたまれなくなって本をしまうことを繰り返していました。
単に,「情報」として知るだけならば,そうした読み方をしなくても良いのでしょうが,こうした問題について,少しでも「自分なりの回答」を得たい・「自分なりの回答」に近づきたいと思っている以上,読むことによって生じる悩みや迷い,とまどい,感情は切り捨てることはできないし,切り捨てるべきでもないと思っています。
もっとも,「第1章 息子の代弁者になりたい」「第2章 先生の感情が見えない」「第3章 遺族の真の救いとは」については,そうした葛藤・悩みを抜きにして読むことはできませんでしたが,その後(「第4章 変わり始めた教育行政」「第5章 同僚性を取り戻せるか」「第6章 何がおまえのスイッチなんや」「終章 学校だけに委ねない」)は,それほど時間をかけずに,今日一日の隙間の時間で読み終わりました。

読み終わり,かつ,他の方にも一読を勧める価値はあると思いますので,ブログには書いておこうと思います。ただ,私自身は,まだ大津の「調査報告書」を読んではいませんし(入手は去年の時点でしているのですが,お蔵入りのままでした。),民事裁判の結論が出ているわけではないので,事実関係等について触れるのではなく,一般論的な感想になることをあらかじめお断りしておきます。

2 人が亡くなられたときの事実解明

まず考えさせられたことは,「人が亡くなられたとき,どのように事実を解明していくべきなのか」ですね。
裁判官をしていたころ,いじめによる自殺の事件こそ取扱はしませんでしたが,労働災害によって死亡・自殺したという訴えの民事裁判は取り扱ったことがあります。その際,もっとも強く感じていたご遺族の希望は,「なぜ子どもが亡くなったのかを知りたい」ということでした。とはいえ,裁判所は当事者から提出して頂いた証拠を検討することはできても,自ら勝手に証拠を集めたりすることはできないことが原則です。当時の事件も,提出された証拠は全て精読し,それらの証拠に基づいて応えられる限りの判決を書いてきたつもりではありますし,それが,判断を下す立場の者として行わなければならないことだと感じていました。
それだけに,「調査」がきちんと行われず,「証拠がない」という状態は,さすがに,割り切れないものを感じることがあります。

もちろん,会社や,学校の立場からすれば,「自ら命を絶った理由まではわからない」と言いたくなることはあるでしょう。
しかし,人は,一日の多くの時間を会社や学校で過ごしますし,そこでなくなられた方が過ごしていた時間-どんなことをしていたのか,あるいはどんなことを感じていたかをしる手がかり-は,学校や会社しか,知っているものはいません。
そうである以上,学校なり会社なりは,ご存命だった頃のその人の行動や日常生活について教えてあげるべきではないかと思いますし,そうでなければ,残された方々も,またそうした方から話を聞いた世間の人も,納得しないのではないかと思うのですよね…。
もっとも,このことについては,もう少しいろいろと調べ,また考えていきたいと思っています。
この本の中で,死に至る心の動きを解明していく一つの方法として「心理学的剖検」というものがあることを知りましたので,早速,それに関わる書籍や文献を入手してみました。いろいろお話を伺っている精神科医の先生にも,良書がないか聞いてみたい気もしています(こうして,読めば読むほど,「新しい未読の文献」が増えていきます…(汗))。
また,肝心の大津の調査報告書も,まだまだこれから読むところなので,自分の中で何かの結論を出すという段階でもありません。

3 学校における調査のあり方と,社会的責任

こうした事件での学校側の行う調査と,先日ブログでも書いた「すき家」のような企業不祥事での調査報告書を見ると,やはり学校側での調査に不満を感じるところは残ります。

大津の調査報告書はまだ読んでいませんが,あの調査報告書も,警察からの資料の提供を受けられたことが大きかったという話を聞いたことがあり,はたして警察が捜査に入らない状態であったなら同じレベルの調査が実現できるのか,分からないところを残します。
「社会的責任」を『自覚的』に検討していくという点では,あるいは企業法務の方が進んでいるかもしれません。民間企業は,営利を目的としているので,本来的な目的ではない「社会的責任」については外部弁護士を活用して対応を検討するなどしています。しかしながら,もともと「社会的」な役割をもっている学校では,自覚的にそうした検討がされてきたことは,乏しかったのかもしれません。
しかし,まさに学校・教師が,医師や裁判官と同じくある意味「社会的」な存在であるだけに,こうした事件が起きた場合には,その影響は一企業の比ではなくなるように思われます。

他方で,単純な企業の調査と,学校での調査を同じに扱っていいかというと,大きく事情が異なります。
企業においては,調査の対象となるのは主にその会社の従業員(希に取引先等)ですが,学校の場合,調査の対象となるのは教師や家族にとどまらず,周りの子どもということになるからです。
従業員は,その企業から給料をもらい,働いている存在でもあるので,その企業の調査に協力することにそれほど矛盾は生じないでしょう。しかし,子ども達は,その学校を選んだというわけではなく,給料をもらっているわけではないですし,『先生』の指示に従って何かを行った立場にあるわけでもありません。

また,任意とは言え,そうした調査が子どもに及ぼす影響を全く考えなくてよいということにもならないでしょうとはいえ,この本には,大津の事件では学校が指導を行わず事実を明らかにしようとしなかったことが,かえって子どもに悪影響・不信を与えたとの記載もあります。「影響を考える」というのは,「調査しない方が良い」「明らかにしない方が良い」ということではありません。

そうした意味では,「どうやって調査をしていくか」というのは,とても悩ましい問題だと思います。
それが,この本を読んだ際,上にも書いた「心理学的剖検」というものに関心を持った理由でもあるのですが…。

4 学校・教師にどこまで求めるか

と,ここまで書いておきながらですが…。

昨今,何かに付け耳にするエピソードの中では,教職員が相当に追い込まれている状況もあると感じています。保護者への対応や,さまざまな書類作成など。
この本にもそうした状況の一端は紹介され,学校を責めるだけでよいのかと暗に問い返しをしている箇所もありますし,先日書いた児童精神科医の先生が主催される勉強会では,本当に驚くような努力をされている先生のお話を伺えることもあります。
先生だけに全てを投げることも,違うのでしょう。
この本では,「第5章 同僚性を取り戻せるか」「終章 学校だけに委ねない」に,そうした指摘も含まれていると思います。

以前,CSRについて他の弁護士等と話をしていたとき。
会社でいかにして社員に「不祥事の隠蔽」をなくさせるかという,コンプライアンスについての話の中で,「隠蔽をなくすというトップの強い意志」と,「隠蔽をすることで,どういった不利益があったか,会社もつぶれ,自分も同僚も職を失ったというようなドキュメンタリーを見せて,隠蔽すること・されることが自分にも周りにも不利益であることを認識してもらう」という話がありました。
そこに現れていたのは,「問題点を1人で抱え込ませずに,それに周りの含めて取り組むこと,周りの人も取り組もうとする組織を作ることが,社会的責任を果たすことにつながり,将来的には組織を守ることにつながる」という視点でした。
もちろん,学校の先生は,「教える自由」「教育の自治」というものが議論されるなど,ある種の独立性を持つところはあるのだろうと思います。
しかし,学校も社会的な役割を果たす「公器」の一つであり,また,生徒に「社会的責任」「ルール」を教えていくという立場にもある以上,社会的責任には応える義務があると思います。
これからは,「学校なりのCSR」「学校なりのコンプライアンスを模索していく。
そんな時代が来るのかもしれない。
そんなことを漠然と考えました。

5 最後に

ここまで読んで頂けたのでしたら,おわかりかもしれませんが,この本は「一つの視点」に立って物事に結論を出すのではなく,複数の視点からの記載を組み合わせ,随所に「問いかけ」をちりばめている本です。
あるいは,こうした問題を身近に感じた人にとっては,納得し難い記載もあるかもしれません。

しかしながら,そうした人にとっても,「これでいいのかな」「どうしたらいいのかな」と何かを見直したり,思い返したりといった,「気づき」を与えてくれる。
そんな本ではないかと思います。