1 法律ができた後
先日、すでに成立している法律のことで、他の弁護士の方々とメールのやりとりをして、気が付いたことがありました。
私自身は、「法律ができた以上は、それに従わないといけないし、それに従ったった運用を考えないといけない」という思いが強いところがあります。
それに対し、法律ができる前から「反対」されていた弁護士の方だと、そうした思いが比較的希薄なように感じられました。
考えてみれば、これまで法律の成立に反対していたのに、いざ法律ができたら全く反対しなくなるというのは、一緒に活動してきた人との手前、かえって一貫しないようにも思えます。
ただ、私自身は、裁判官として10年間務めてきたこともあり「法律が成立した後もなおその適用に抵抗する」という発想は出てきませんでしたし、市民運動などでそうした発言を耳にしたときには、強い違和感を覚えていました。
すでに法律ができた以上、周りの人はそれに従うと思いますし、そうであれば、自分だけ従わないことは、自分だけではなく、周りの人にも迷惑をかけることになりうる気がします。
そうである以上、私は、私のところに相談に来た人に、そうしたことは言えないな、と思っていましたし、外部で話をする場合にも、そう話していました。
2 気が付いたきっかけ
こうして感じた「違和感」を他の弁護士に話しても、なかなか伝わっていないような感触があったので、あらためて「なぜ自分は違和感を感じるのか」を突き詰めてみたところ、以前、裁判所所長をされていたある裁判官からすすめられた「われ判事の職にあり」という本のことを思い出しました。
残念ながら、すすめられたものの、この本はすでに当時絶版になっており、入手することはできなかったのですが…。
戦後の食糧難の時代に、闇の商売をした人を裁く裁判官の立場であるにもかかわらず闇米を口にすることはできないとして、激務を続けた結果、身体を壊し、お亡くなりになられた裁判官のお話です。
伺ったときには、「すごい覚悟の方がいたのだな」と思っていましたが、10年間裁判官という職を続けてみると、そこまでの覚悟が自分にあるかはともかく、その「想い」の一部はわかるような気がします。
裁判官は、日々、【法律】を適用する仕事をしています。
罪を犯してしまった子には、「なぜそうした行為が、法律で禁止されているのか」を説明し、「だから君はそれを償わないといけないよ」と話していましたし、民事や労働の裁判でも、大なり小なり、そうして【法律】を適用し、法律を説明して仕事をしてきました。
そのため、「法に従わなくてよい」ということを言うことは、それが厳密に違法とまではいえないものであっても、それまで自分が言ってきたこと、過去を否定することになると思えてしまいます。
以前ブログでも書きましたが、私自身、結果として裁判官をやめることとなったものの、10年間裁判官として悩み抜いてきたことは、今の自分につながる、決して否定したくない経験として、抱え続けていますので…。
だから、「法律が制定された以上は、法律家である弁護士として、それを守らなくてよいとは言えない」と言い続け、市民活動家の方に違うことを言われると、強い違和感を覚えたのでしょうね。
3 それだけに少年法は
このブログで何度か書いているように、私自身は、少年法の、「少年の年齢切り下げ」には、どちらかといえば、反対したい気持ちを持っています。
それは、年齢が切り下げられてしまえば…、その年齢の子が、何かの拍子で軽微な罪を犯してしまったとしても、その子を裁く裁判官は、もはや「その子供の背景を十分に調査し、子供の専門家がかかわる少年法の処遇」を一切行えないことになるからです。
前のブログで挙げた書籍の著者は、「表社会のスカウトマン」と名乗っていましたが、軽い罪を犯してしまった子については、その子を「犯罪者」として裏社会に追いやってしまうのではなく、表社会に引き戻す活動をしてこそ、社会が保たれていく気がするのですよね…。
たとえそうした思いがあっても。
選挙で選ばれた議員の方々が、「少年法の年齢切り下げ」を立法化すれば、「司法」である裁判官は従わざるを得なくなるのでしょう。
それだけに、「本当にそれでよいのか」慎重に考えてほしいと願うばかりです。