【天秤印】春日井弁護士雑記(旧名古屋・横浜弁護士雑記)

現在春日井市に勤めている元裁判官現弁護士が、日々感じたことなどを書いています。

「…それでも生に『しかり』と言う」(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」【書評】)

 ゲルトルート・シュヴィングの「精神病者の魂への道」を読んで,心理学についての古典が,「人間の生き方」というものと密接に関わっているように思えて,また読んでみたいと思ったものですから,少し前から気になっていたこの本を【通勤読書】で開いてみました。 

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1 この本を知った経緯

 もともとは,10年と少し前,私が司法修習生だった頃に,東京で一緒に修習を受けていた同期の方が読まれていたことで,その存在を知った本です。

 その本は?,と尋ねた私に,同期の方は,「アウシュビッツに収容されていた方が書いた本」と教えてくれました。私も,特にその時,それ以上のことを尋ねなかったため,当時は著者のフランクルが心理学者とは知りませんでした。

 しかし,最近,「アドラー心理学入門」を読んだ際に,アドラーがアメリカに渡る前に交流していた心理学者として,フランクルの名前が登場し,初めてこの「夜と霧」が心理学者が書いた本であることを知り,「読んでみたいな」と思うようになりました。

2 人は生きているだけで価値がある

 …という言葉を,耳にすることがあります。
 でも,「なぜ」と問い返されたとき,どれだけの人がそれを説明することが出来るのか,また,どれだけの人がその言葉を口にする資格があると,聞き手に認められるのか…。
 以前別のブログでも書いたように,言葉は聞く耳を持たない人にとっては,力を持ち得ないものでもあります。この言葉を伝えなければならないと思うような相手に,この言葉を口にして,受け入れさせることが出来る人というのは,どれだけいるのだろう…
 そう思うことがあります。

 どうやら,この言葉。ヴィクトール・フランクルが言った言葉のようです。いえ,正確に調べたわけではないので,違うかもしれませんが…。

 この本にはこんなことが書かれています。
 「最後の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は,彼が最後の息をひきとるまで,その生を意義深いものにした。なぜなら,仕事に真価を発揮できる行動的な生や,安逸な生や,美や芸術や自然をたっぷり味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく,強制収容所での生のような,仕事に真価を発揮する機会も,体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも,意味はあるのだ。

(「夜と霧」【新版】112頁)

 多くの看守は残酷であったり保身を優先し,そうではない看守も嗜虐行為を見慣れ鈍感になってしまった中,同じ被収容者がガス室に送られたり,過酷な労働で命を落としていき,被収容者達も自己の生命を繋ぐこと意外に関心を持たなくなり,生存競争の中で良心を失い,暴力や仲間からの盗みも平気になっていく。

 そのような環境で,さらに,どれほど長く収容所に入っていなければならないかがわからない状態が続く…。
 そのうえ,3年ほどの収容を経て開放された後,会いたいと願っていた家族は別の収容所で無くなったらしく,会うことはもはや出来なくなっていた…。

 これほど過酷な体験をした人から,「どのような生にも意味がある」と言われれば,それはうなずくしかないと思います。
 タイトルに書いた「…それでも生に『しかり』と言う」というのは,翻訳される前の「夜と霧」が収録された書籍の表題です(「訳者あとがき」によります)。

3 「生に意味がある」とは,「義務を負う」こと

 「どのような生にも意味がある」という言葉が,優しい言葉か,というと,一概に言えないように感じます。

 フランクルは,人間は,人生にどういった意味があるのかを問いかける立場にあるのではなく,むしろ,人生から「おまえはどうする?」と問いかけられる立場にあり,それに答える責任がある,といっているようです。
 それは,逆に言うと,自分をあきらめるということをしない,あきらめない責任がある,といっているように思われますので,それはそれで大変なことかもしれません。
 もちろん,自分をあきらめるような選択を過去にしたからといって,それを「許さない」といっているのではないのでしょう。ただ,その後も,ことある毎,何かの態度を示す機会が訪れる度に,人生から「おまえはどうする?」と問いかけられ,そのとき,人間はそれに対してどういう態度を示すか決める義務がある,といっているのだろうと思います。

 「人は生きているだけで価値がある」と言われて納得できない部分を残された方や,どうしてそう言えるのかが知りたい方は,その言葉を言われた方が自ら記された,この本を読むと,自分で考える切っ掛けとなるのではないか,と思います。

※ 「人は生きているだけで価値がある」という言葉自体は、宗教などでも使われそうな気がしていますので、フランクルが初めに言った言葉なのか、他の人が別の意味で言っているのかは、知りません。

 でも、フランクルの言っている意味で使うとすると、この言葉は【口にする人の資格を問う】だろうと思います。いわれた側からすれば、「では、あなたは人生への義務を果たしているのか?」ということを思うでしょうし、口にした人間がそれに見合う行動をとっていなければ、相手をより失望させるだけになると思いますから…。

 フランクルだからこそ、言えた言葉かもしれません。

 もしかしたら、フランクルは、自分がこの言葉を言うことが、自分が果たすべき人生への義務だと思ったのかもしれない。そんなことを、ちらと考えました…。