1 昔は木がたくさん
先頃,横浜市の「北」に行った際,そこの方から「この辺りは,昔,木がたくさんあったんですが…」ということを言われ,この本のことを思い出しました。
この本は,宮前の土橋にて幼少期を過ごされた方が書かれ,土橋が多摩丘陵の「谷戸」-丘陵地の小高い丘が重なる谷間の地の集落-であったときのことに触れていますので,昔の横浜市の北部での生活を連想することができます。
というか,私自身が育ったのも,昔の「緑区」であり旧都筑郡なので,同じような「谷戸」だったのかもしれませんが…。
2 「オオカミの護符」-平地と山の繋がり
この本は,著者が,子どもの頃の暮らしや,その頃の人が大切にしていた物に思いをはせる中で,家の土蔵に張られていた「オイヌ様のお札」が何であったのかを調べ,「御嶽講」について尋ね歩いて行く…というような内容です。
大学生だった頃,奥多摩の山に登に行ったことは幾度かあったものの,「御嶽山」は,必ずしも高くなく,またケーブルカーがあったことで敬遠してしまっていた山でした。
ただ,いつだったか,朝寝坊をしてしまい,他の山に登るには時間が足りない…というときに,一度登った記憶があります。
参道には,宿房があり,また,複数の「講」が納めたと思われる大きな石の碑(そういう言い方が正しいのかは知らないのですが…)があって,「どうしてこんなに,崇拝されてきたのか」と,奥多摩の他の山や,家の近所にあった神社などと比べ,何となく不思議に思った記憶があります。
この本によると,武蔵のお百姓さん達が,信仰し,年に一度代表者が詣でるなどしていたと言うことなので,「なるほど…」と納得しました。
3 社会の成り立ち
この本によると,土橋は昔は50戸くらいの集落であったものが,その後7000世帯近くにまでなったと書かれています。
昔の集落の成り立ちについて,この本では,民映研の『秩父の通過儀礼』シリーズに触れ,「誕生から少年期,成人,結婚,長寿のお祝い,葬式に至る『人の一生』に対し,その成長を見極め,丹念に祈り,寿ぎ,そして見送る人々の姿が鮮やかに映し出されている。」として「人は,人をこんなにも大切に扱ってきたのだ」と書いています。
また,「村落社会というのは,初めて村を訪れる外来者に対しては慎重に接する」「限られた自然の恵みの中で維持されている村落に,全く異なる暮らし方が持ち込まれることは,村の破壊につながりかねない重大事なのだ。」とも書かれています。
他方で,雪の多い土地から冬の間に関東に農作業を手伝いに来ていた人(作男)について触れ,「かつては,土地の持つ天然の資源に頼る他なく,多くの人を養うことはできなかった。特に寒さが厳しく冬に耕作できない東北や信州などでは,家を守る長男以外はこうして『作男』として外に出されるか,手に職をつけ,大工や植木屋などの『渡り』職をして暮らすか,あるいは肩身の狭い思いをしながら故郷で生き延びる他はなかった。」とも書かれています。
むかしは,集落という社会の構成員が「移動」等をすることは容易ではなく,そうした構成員がきちんと助け合っていける人になってくれるかどうかは,集落という社会にとってとても重要なことだったのでしょう。
だからこそ,構成員に所属しない人が集落を訪れた場合には慎重にもなったのでしょう。
4 今とこれから
今,50戸が7000世帯になることができたのは,世界規模で分業(グローバル経済,といえばいいのでしょうが)をすることで,「天然の資源」によらなくても「物を作って売る」ことで,食べていくことができていたからでしょう。
それを可能にするためには,そうした集落というものに囚われずに,人が移動して集まって働けるようにすることが必要であり,合理的だったのでしょう。
ただ,【世界規模で分業】をしているということは,他の国の状況が変わってこれば,自分の国の状況も変わってくることになります。「うちの国でもそれを作りたい」「うちの国で作った方が安い」という外国も,あるでしょうから。
そうすると,今までと同じように7000世帯を維持していくのは,なかなか難しくなっていくのでしょう。1人1人の就職や進路も,選べる選択肢が変わってくると思いますし,税金の収入が変われば税金で行われていること-教育や福祉といったことにも影響していくのでしょう。
とはいえ,いまから50戸に戻ることができるわけではありませんし,50戸に戻ったからといって上手くいくという話でもありません(「外国」「他国」が無くなるわけではありませんので)。
ですので,これからどうするかを試行錯誤していくしかないのだろうな…。
そんなことを,つらつら思ったりもします。