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【天秤印】横浜弁護士雑記

横浜で弁護士をしている元裁判官が、日々感じたことなどを書いています。

「手ごわい問題は、対話で解決する」アダム・カヘン著(書評)

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「手ごわい問題は、対話で解決する」アダム・カヘン著。株式会社ヒューマンバリュー

 1 【あとがき】を読むと…

 あとがきを読むと、こう書いてあります。

 「本書をお読みいただいた方は、この本が問題解決の方法といったハウツウ本ではないことにお気づきでしょう」

 はい。読むまで気が付きませんでした。 

 いつだったか、古書店で手にした本です。

 副題にはアパルトヘイトを解決に導いたファシリテーターの物語」と書かれています。

ファシリテーション」の本であることと、アパルトヘイトという世界的な大問題にそれを適用した話と思われたことから、興味を持って手に取った本です。

2 ファシリテーション

 ファシリテーションとは,「中立な立場で,チームのプロセスを管理し,チームワークを引き出し,そのチームの成果が最大となるように支援すること」といわれます(日経文庫「ファシリテーション入門」)。

 こうした「ファシリテーション」というものを初めて知ったのは,家庭裁判所の裁判官をしていたときでした。

 当時,家庭裁判所においては,法に触れた少年に少年審判で反省を求めるだけではなく,少年の親に対しても何らかの働きかけを行った方が良いのではないかという視点が強く,そうした試みの1つとして,非行をしてしまった少年の親たちを集めて親同士が話し合うことで,それぞれの親が「子どもに対する接し方を振り返る」ことができないかという,「保護者会」という試みを行っていました。

 その「保護者会」における司会進行役が「ファシリテーター」と呼ばれていました(ケース研究288号188頁「『保護者の会』におけるファシリテーターの役割と訓練」)。

 そのため,私も上で引用した日経文庫の「ファシリテーション入門」を買って読んだりしていましたが,幸か不幸か家庭裁判所にいる間にはそうしたスキルを活かす場面はありませんでした。 

3 裁判手続き等とファシリテーション

 しかしながら,「中立」の裁判官にとって,こうしたスキルは,その気になれば役立てることのできるものです。とはいっても,対立当事者しかいない通常の訴訟の場面では,こうしたスキルはあまり役立ちません。私がファシリテーションのスキルが上手く働くと感じたのも,労働審判-それも労働審判員に質問をさせて労働審判官はあまり質問しないという当時福岡で行われていたスタイルの労働審判や,二人程度の専門家調停委員を加えた専門家調停において,労働審判員や専門家調停委員の方々が当事者とやりとりをするのを助ける際などです。

 弁護士になると,さすがに「中立」ではないので,本来の職務でこのスキルを活かすことはあまりありませんが,委員会での議事を進めたり,あるいは,高齢の方の身上監護のあり方について,行政と親族との間にたってケースカンファレンスを行うときなどには,役に立つこともあります。 

 実のところ,上記のファシリテーション入門に書かれているスキルやテクニック(アイスブレイクなど)を実際に行うかというと,そういうことは全くありません。また,「合意」を導こうと頑張ることは,かえって「中立性」を損なう場面が多く,少なくとも対立当事者のみが登場する通常の訴訟では適さないでしょう。しかし,対立当事者と裁判官以外の労働審判員や専門家調停委員が複数関与し、また、【争点を整理する】という点で十分と割り切れば,それぞれの人が発言したときに,「かみ合っていない質問を言い直したり」,「伝わっていない発言について補足して説明を加えたり」,「誤解されている発言を訂正したり」するだけで,話し合い=整理が進んでいくことはあります。

 もちろん、そうしたスキルを行うことで時間がかかってしまう場面もあると思いますし、個々の事件に対して適当な方法かどうかも一概に言えませんので、こうしたスキルを使うことがよいのかどうかは、ケースバイケース、人それぞれなのだろうと思います。 

4 この本に書かれているものは違います。

 ただ,この本に書かれているファシリテーションは,そうした,私自身がこれまで見て,行ってきたファシリテーションとは全く異なるものでした。

 まず、普通の裁判や,法律家が関わる問題解決にこの本で書かれているような方法を採ろうとしたら,とんでもないことになると思います。 

 この本に書かれているのは,互いに追い詰められた状況にある複数の人たちが,自分の寄って立っていた立場を捨てて,話し合うところから始まる物語です。

 そういった意味で、取り上げられている問題は、「手ごわい」どころではなく、逆にそうした極限状況だからこそかえって話し合いが成立する、という状況に見えます。

 南アフリカアパルトヘイトにおけるモン・フルーのアプローチの話,グァテマラでのビジョン・グァテマラの話…

 等しく追い詰められた人が複数集まる場面から,こうした取り組みは始まり,そして,「ファシリテーション」を行った人たちが日常生活に戻ってみると、その周りの人たちも同じように追い詰められている状況にあることから,このファシリテーションの内容がうまく伝わり、共有されていく。

 そうした問題解決の過程に見えます。

 本には,衝撃的で、集まっている人々の意識をいやおうなく、話し合いに向かわせるきっかけとなる場面が書かれています。

 「オチャエタ氏は大量虐殺が数多くおこなわれたマヤ民族の村を訪ね、大量の死体埋立現場の発掘作業を目撃したときの話をしてくれました。土が取り除かれたとき、彼は多くの小さな骨があることに気がつきました。彼は鑑識チームに虐殺の過程で人々が骨を折られたのかと尋ねました。すると、その埋葬場所は妊娠した女性たちの死体があるからだという答えが返ってきました。小さな骨は胎児のものだったのです。」(176頁)

 この後、チームのメンバーが皆沈黙してしまい、その後しばらく時間をおいたところ、場の空気が一変し話し合いが進んでいった経過が書かれています。 

5 自らを振り返って

 こうした場面は、いま、日本で暮らす我々は、幸いにも直面せずに済んでいる話だろうと思います。

 他方で、私が読んでいてもっとも考えさせられた、自分を振り返ることを余儀なくさせられたのは,この本のはじめの方に書かれている、ファシリテーションとしては上手くいかなかった例-カナダにおいて、ケベック州はカナダから独立すべきとする立場の人たちと、カナダは連邦であるべきとする立場の人たちとの間で行われた対話の話でした(カナダの問題状況を正確に把握していませんので、不正確なところがあるかもしれません)。

 そこで,著者はこう書いています。

 「カナダのケースでは、ほとんどの人は、現状のままで居心地がよかったのです。結局のところ、ほとんどのカナダ人は良い暮らしを送っていましたし、戦争も無く、ケベックとカナダの行き詰まりなどを心配する人はほとんどいなかったのです。私たちは、もし国が変化したら厄介で居心地の悪い、あるいは危険な状態に自分自身が陥るのではないかと恐れていました。だからこそ、無意識の内に安全で、概念的な会話をし、そして礼儀正しく保っていたのです。私たちが同意した結論は、私情を挟まず公平で中立的なものでした。つまり私たちは慎重さ以外には何も支持しなかったのです。私たちの恐れと礼儀正しさは変革を阻害したのです。私たちはそのプロジェクトの形式的目標は達成しましたが、誰も気に掛けない成果を生んだだけでした。」(84頁)。 

 もちろん、これは「ファシリテーションとしては」上手くいかなかったというだけのことにすぎず、当時のカナダにおいて上に書いた問題が本当に解決しなければならなかった問題なのかはこの本には書かれていませんし、浅学な私は把握していません。変革する必要のない問題であれば、変革しないことも立派な選択だと思います。

 とはいえ,先日紹介した「日本経済の罠」も、不良債権処理の問題を先送りにしてきたことが、日本の「失われた10年」に繋がったと書かれていましたが…。

 私たちは、今を良しとして、問題を先送りしてしまっていないか。

 そんなことを、改めて考えさせられる本でした。