【天秤印】春日井弁護士雑記(旧名古屋・横浜弁護士雑記)

現在春日井市に勤めている元裁判官現弁護士が、日々感じたことなどを書いています。

ナラティヴとアセスメント-児童虐待や少年非行におけるソーシャルワークについて思ったこと

 少し前に考えたことを,振り返りも含めて書き残しておきます。本当に「雑感」で,整理されているわけではないのですが…。

1 英国における子ども虐待におけるソーシャルワーク

 昨年の11月25日,26日には,チャイルドファースト・ジャパン主催の「子ども虐待におけるリーガル・ソーシャルワーク ~英国の歴史~」を聞きました。
 その席上では,「LUMOS」(当日聞いた話では,ハリー・ポッターの原作者が設立した団体で,物語の中の「明かりを灯す」呪文の名前を冠してあるそうです)のNaomi Deutsch氏が海外講師として呼ばれていたのですが,そこでの話は非常に興味深いものでした。
 イギリスでは,子どもの虐待があった場合に,子どもが親から離れて暮らす必要があるかどうかは裁判所が判断をするのですが,その際には,地方自治体ではなく国が雇用しているソーシャルワーカーが子どもや親,その他の関係者と話し合って,子どもがどこで生活するかだけではなく,どの学校に通うのか,地域や友達との関係をなくさないためにはどうしたらよいかといったことも含めた,総合的な「より子どもにとってよい生活プラン」を検討し,そのプランを裁判所に提出するという話がありました。
 もちろん,そうした制度には,多額の税金も使われていると思いますので,他の問題よりもそうしたことに税金を回すべき,という一般の方々の合意が無くては難しい制度なのだろうと思います。
 この話を聞いたときには,非常に興味深く思い,そのソーシャルワークのやり方の一端でも学べないものか,何か論文などがないかと思って,インターネットで探してみました。
 そうして出会ったのが,田邊泰美著「英国児童虐待防止研究ーコンタクトポイントCPd:ContactPoint datbase),共通アセスメントフレームワーク(CAF:Common Assessment Framework),児童情報管理システム(ICS:In formation Cfildren's System)が児童(虐待防止)ソーシャルワークに与える影響について」(園田学園女子大学論文集第48号)です。

 そのなかでは,共通アセスメントフレームワーク(CAF)の課題として,「実践家は子どもの懸念をナラティヴで表出する。ナラティヴを利用することで,子どもの全体像や背景/脈路に関する情報を提供し,懸念を明確にする。」「CAFのフォーマットはナラティヴを否定し家族を解体/分散させている。ナラティヴの否定は,子どもの懸念/ニーズを家族関係/脈絡から切り離された情報端末に置きかえ,家族の持つ時間的・歴史性を捨象する」との記載があります。

 …素人なので正確に理解できるかはわかりませんが,本来のソーシャルワークでは時間的な流れを踏まえての「その子の,その家族の物語」を捉えるのに対し,アセスメントの中にはそうした要素を入れることが困難であり,結果として正確に伝えることができない,ということのように思われます。

 そして,同論文ではそうしたアセスメントの手法が,ソーシャルワークにおけるナラティヴの否定に結びつくのではないかとの懸念が示されています。

 日本においても,重大な児童虐待は生じていますので,実務家・専門家の間での「子ども・家族」についての情報の共有(共通言語)のようなものを図る必要はあると思っています。そして,ナラティヴは,ある意味共有や客観化が難しい側面もあるように感じていますので,どうしてもアセスメントが必要な部分はあるように思われます。

 ただ,アセスメントを精緻化すれば,現場の人間が使えるか,また,「子どもや家族」についてきちんと共有できるかというと,そういうわけではないのでしょう。

 ナラティヴを活かしながら,他方でアセスメントと両立させることが大切なのだろうと思います。

 そういえば,先日読んだ「『三つの家』を活用した子ども虐待のアセスメントとプランニング」にも,冒頭に著者(外国の方ですので,日本の制度での話ではないのですが)のこんな言葉がありました。

 「私がこのツールの第1バージョンを作ったのは,子どもや少年少女のために児童・青少年・家庭局が提供するサービスのプランが一般的過ぎる,子どもや少年少女,親や養育者,家族の意見が明らかではない,という家庭裁判所裁判官の批判に答えるためでした。」

 この「三つの家」のアプローチや,サインズ・オブ・セーフティのアプローチ(こちらはまだ読んでいないので,違うのかもしれませんが…。)は,ナラティヴをできる範囲で客観化して,アセスメントとしても使おうとする試みなのかもしれませんね(もちろん,精緻なアセスメントまでは行えない=本人が語れないと思いますので,限界はあるのかもしれませんが…)。

2 日本の少年事件における調査

 そういえば,昔裁判官だった頃,同じような会話を家庭裁判所調査官とした記憶があります。

 「家庭裁判所調査官が,この子どもの心の中でAという物語があったのだと考えていることはわかる。でも,この子どもの○○の事実からは,Bという物語も考えられるし,Cという物語もあり得る。当然,そのどの物語を採用するかで,子どもに【今後直してほしいこと】も変わる事になる。だから,家庭裁判所調査官はなぜBやCという物語ではなく,Aという物語を採用したのかを教えてほしい。」

 そんな会話をしたことが。

 少年事件においては,家庭裁判所調査官が,非行の原因や少年の抱える課題を明らかにするために,調査を行います。

 こうした家庭裁判所調査官の調査について,むかしある方が書いた文章(エッセーのようなものでしょうか…)の中で,「少年審判の中で,少年審判官は父親,家庭裁判所調査官は母親としての役割を果たさなければならない。」としていたものを読んだ記憶があります。

 相当昔の文章なので現在では表現としては適切ではないと思いますが,文章中では父親というのは白黒を付ける審判的な立場,母親というのは子どもの成長を信じ受容する立場を表現していたような記憶があります。

 昔は家庭裁判所調査官の調査結果は,ナラティヴとしての側面も強くもっていたように,個人的には感じています。

 ただ,以前所属していた弁護士会の「子どもの権利に関する委員会」などで伝え聞いた話からすると,家庭裁判所調査官のありようも,幾分,ナラティヴからアセスメントに軸足を移しつつあるような気もしています。

 それはそれで,必要なことだと私も思うのですが…。

 他方で,心理学の知見も学んだ家庭裁判所調査官がナラティヴを行わなくなってしまったときに,【誰がその子のナラティヴを裁判官に語れるのか】は,気になりますね…。

 受刑者の更生などでは,最近ナラティヴを活かした取り組みも行われているように感じますし,その子どもが「生き直す」には,ナラティヴという側面は必要な気もしますので…。

 もちろん,それだけで全てが上手くいくものではないので,難しいのですが…。