荷物の受け取りのため、早く帰宅し、たまたま手に取って開いてみたところ、また気づかされたことがありました。
「あれ?あの本の書評書いたよね?」
と、ブログ内記事を読み返したところ、まだ書いていなかったので、この機会に。
以前、名古屋にいたときに購入し、今回春日井に来るときも持ってきた本の一つです。
禅やお茶、といった日本の思想は、ごくごく身近な、ほんの小さな自然の中にも、驚くべき深い世界があることに目を開かせ、「日ごろの関係性に縛られた社会」から自分を解放することが、一つの特徴ではないかなあ…と個人的には思っています。
まあ、禅についてきちんと勉強したことはないのですが(鎌倉の円覚寺を歩いていて、樹間から漏れた光が苔や新芽の上に落ちるさまを見ての、思い付きですが)。
この本は、自然の中を歩かなくても、あるいは、場合によっては自然の中を歩くよりもよほど雄弁に、そうした世界に目を開かせてくれます。雨が降るときに身を包んでくる匂い、つくばいから流れる水の音、お湯が沸く時に奏でる声…。
読み終わったときには、ちょっとと外に出て、雨のにおいを全身で感じてみたくなったり、水の流れを目に入れたまましばらくぼうっとしていたくなります。
そしてもう一つ、「和菓子」の描写が本当においしそうです。以前、名古屋にいたこともあって、我慢できずに、「美濃忠」の「初かつを」を買って、実家に送ってみたことがあります。見た目はまさに期待通りです。味については、正直「本で期待が膨らんでいた分」点が辛くなってしまったかもしれません。【ういろう】のような味のお菓子でした。
裁判官は、証拠から過去にあった事実を見抜く「過去視」の仕事。弁護士は、そうした裁判官の判決を予想して、「今何をしたらよいか」を考える「予見」の仕事、というのが僕なりの「とらえ」(そして僕が身に着けてきたと思っているもの)ですが…。
この本では、こんな風に言われてしまいます。
過去や未来を思う限り、安心して生きることはできない。道は一つしかない。今を味わうことだ。過去も未来もなく、ただこの一瞬に没頭できた時、人間は自分がさえぎるもののない自由の中で生きていることに気づくのだ…(214頁より)
なるほど、ちょっと「過去」と「未来」に振り回されてい過ぎたかな?やはり、もう少しメリハリをつけて、「今」に「没頭」できる時間を持たないと、自分が持たないかな?
そんなことを振り返らせてくれますね。
追記:よっぽど仕事が大変なのか、と誤解されてしまいそうですが、そんなことはないです。ただ、睡眠時間のコントロールが効かなくなって、不眠にはなりかけており、それが「焦り」を呼ぶという、ある意味悪循環を招いていましたね。
昨日、この本を読んだことで、それがある程度改善したという感じでしょうか。
この本では、著者がひどい頭痛を抱えていたときに、「つくばい」の水音を聞くことでそれがすっと消えたことや、「頭の中をハツカネズミが走り回っている」ときに、茶の湯の「松風」の音が鳴り、突然に途切れることで、その状態から解放される体験が書かれており、没入して読むとそれを自分でも追体験できるんだろうなあ、と思います。
この辺りの自分の体調がうまくコントロールできない当たり、未熟だなあ、と思います。「社会人として自己管理をしっかりしてください」と言われたことがあったようななかったような…。