【天秤印】春日井弁護士雑記(旧名古屋・横浜弁護士雑記)

現在春日井市に勤めている元裁判官現弁護士が、日々感じたことなどを書いています。

「分かってもらう」こと

 「分かってもらうこと」って、難しいなあ…と、痛感します。

 法律家と法律家でない人、というよりも、「裁判を進める」際にその行く末を予想して、必要なことを考えるという「視野」「視界」は、裁判を経験しないと(単に、裁判を傍聴すればよい、というだけではなく、目の前の裁判官が何を考えているか、どうすればそれを満たせるか、といったことを)理解してもらい難いのだろうなあ…と思います。

 前職の児童相談所で、いろいろと4年間工夫してきました。

 法律で何らかの答えが出る場合でも、それを「実際の現場」に落とし込まなければ活かすことはできませんし、それを職員に丸投げしたって、職員側もわからないことがあると思います。他方で、僕は「現場」を知っているわけではないので、「その現場に最も向いたやり方」にまで「落とし込む」ことは難しいです。

 ですので、僕から具体的な「例」として提案を行い、それを現場の人たちに再検討してもらう、というようなやり方をやってみたりはしますね。「こちらからボールを投げてみる」だけでも、コミュニケーションを前に進められると思っていますので。

 ただ、「なぜ裁判だとそうなるのか」という部分は、分かってもらいにくい、伝わりにくいこともあります。ここをわかってもらえないと、「現場への落とし込み」がうまくいかなくなるので、色々と工夫はしているのですが…。

 それを工夫したくて今の職場に来たのですが…。

 それを勉強する読書に割く時間と、それを工夫する時間が、なかなか足りないなあ…と思います。

 実は、前の職場を辞めた後にそういったことについて書いた本も買おうとしたのですが、結局、労働災害関係の知識と、相続法改正の知識と、債権法改正の知識を勉強した当たりで春日井市に再就職してしまったので、そこまで勉強が進まなかったのですよね…。

 現状はまだ、法律相談に対応していくだけで、いっぱいいっぱいかもしれません。

 う~ん。

 もっと慣れて、知識が広がったら、その辺にもっと力を避けるといいな、と思っていますが。

 それでも、

 自分の話を聞いてもらえるのはうれしいですし、

 できれば、相手からもいろいろと提案が欲しいですね。

 そのためにも、「自分の話が伝わっていないところがある」と感じるのは、悔しいでしょうか?

あるがままの日常

先日は、ずいぶんと情けない状態になってしまいました。

なさけないなあ、と思うところもありますね。

失望されたら、まあそれはそれで仕方がないかな、と思うところも。

 

しょせん、僕は僕にできることしかできないので。期待のすべてに応えることなどできるわけもなく、失望されるところがあるのは、当然と言えば当然だとも思うので…。

 

でも、一つ一つの相談で、自分の言葉がどこまで相手の中に入っていったか、それを見ていくと、自分-司法の考え方をする人間と、相手―行政の現場にいる人間の、思考の違いが、少しずつ分かっていくのは面白いですね。

 

まあ、違いが分かったとして、その「間」を少しでも埋めていくことができるのか、それとも無理なのか…。

間を埋めるためには、おそらく僕側から働きかけるだけでは、限界があるのでしょうけれど。

限界

 「法律相談」という具体的な問題に触れることを通じてこそ、自分の力も理解も増していくし、それがやりたくて春日井市に就職したというところもあります。また、仕事が無かったら、いただいている税金に申し訳ないので職を辞するか迷う可能性もあるので、何とも言い難いのですが…。

 そうはいっても、限界はあるものだな、ということがよくわかりました。

 最近はストレスのためか、他の理由かはわかりませんが、1日の睡眠時間が0~2時間になってきており、一昨日も一日眠れず動けず、昨日も14時ころまで身動きが取れなかったので、やはり限界にきているな、と判断せざるを得ない気はします。

 気が付くのが遅くなり、先日は職員の方に不快な思いをさせたところもあります。また、この半年で、自分が苦手とする相談も、少しわかってきました。

 週明けに、業務の分担について上司に相談してみようと思います。

 あるいは、僕の器・能力では春日井市の弁護士は務まらなかったのかもしれませんが。

 そうであれば、それはそれでやむを得ないかな、とも思いますね…。

 (保身と安定に比較的関心の薄い変革の水瓶座

 

 だからといって、今いただいている相談について、手を抜くつもりは毛頭ないのですが。

 僕の辞書に「不可能」という文字は1ページ目にでかでかと書いてありますが、「手抜き」という文字はない。

 そう言えるようでありたいな、と思っているので。

※ 実のところ、これで「相談に来る人が相談に来にくくなったら、嫌だなあ」という思いもあり、どうするかは躊躇していました。ただ、そこは幾分の業務分担と、数日の休みで、自分を立て直して、様子を見れるんじゃないかな~とは思っていますが。

思っていたよりも遠かった

思っていたよりも遠かった「福祉の里レインボープラザ」

…自転車で行くには。

 

地図で見る限りは、国道19号に沿って行けばつけるはずだったので、道に迷う恐れはない…と思っていましたし、エアポートウォークよりは近いんじゃないかと思っていましたが…。

どこで曲がればよいのかの目印がわからないので、結構神経を使いました(エアポートウォークは、離れたところからでも見えたので)。

入浴施設と、トレーニングルーム、娯楽室や休憩室、イベント用の貸室などもあって、いい施設だと思います。

 

「福祉の里」へ来るまでこれだけ大変では、いずれ行こうと思っている春日井三山はもっと大変かもしれない…と思っていましたが、帰宅後改めて手元の書籍「愛知県の山」を確認したら、春日井三山があるのは福祉の里から割


と近くでした。よかった、よかった。

…いや、この数倍大変なら、春日井三山に行くのはあきらめて、瀬戸駅からバスで行ける猿投山にいこうかな、などと思ってしまったので。

※当日は、天気が悪かったので良い写真を撮れませんでしたが、その後、良い天気の時に撮った写真になります。

 

伝えることは難しい

う~ん。この年になってこんなことに悩んでいてはダメなのかもしれませんが…。

やはり「伝えること」というのは難しい。

判例が明言している、本に明確に書いてある、というものであれば、説明を受けた側も分かってくれるのですが…。

その事例に適した裁判例はない、本にも明確に書いてあるわけでもない、が、総合的に判断して僕はこう考える…ということは、わかってもらうのは難しかったようです。

う~ん、力不足か…。

もっと時間をもらって、きちんと自分の考えを整理して、わかりやすくブラッシュアップして示せば、もう少しいいかもしれません。個々の問題を深く調べ過ぎずに、表面的な回答でとどめれば、もっとわかりやすい答えにできるし、「わかりやすくする」ことに時間も割けるかな…とは思うんですよね。

ただ、「わかりやすく示す」というのは、それだけ「正確さ」からは遠ざかることになりますし、表面的な答えにとどめると、対話の中で理解やアイデアが生まれなくなってしまうこともあります。

なので、どうするかが悩ましいですね。

 

裁判所にいたときに他の方から聞いたことですが、行政の世界では、A4一枚の図に様々な事情を書いてわかりやすく説明することが重宝されるそうです(行政庁の資料などでも、そうしたものがあります)。行政の取り扱う広範な問題に、迅速に意思決定をするには、そうでないとなかなか回らないのでしょう。

他方で、「司法」の世界は、「自分が意思決定すればよい」世界ではなく、「それを他人である裁判官はどう判断するか」(あるいは判決の読み手は納得するか)の世界です。そして、裁判は「正確性」を基にするので、それなりの事件の判決文だと、20~30頁に及ぶものになりますし、その理由の説明も、きちんと説明しようとすると(それがどこまで可能か、それを試みるとかえって分かりにくくならないかは、裁判官によっても考え方が異なるかもしれません。僕はこだわってしまう方でしたね)、かなり長くなってしまうこともあります。

この「間」をどう埋めていくかだなあ…。

もっとも、「分かってもらおう」という僕のそのスタンスが、必ずしも相手が求めているものでない、ということは結構あるかもしれないとは思っているので、そこはいずれ気を付けないといけないかなと思っています。今はまだ、それを気にする段階にたどり着けていないでしょうか。

でも、もっと表現を工夫できる余地はあるだろうな。

伝わらない?

「それでは、裁判官には伝わらないから…」

弁護士事務所をやっていた時も、児童相談所にいたときも、そして今も。

結構これを説明しているのだけれども、これがなかなか伝わらない。

何が伝わらないって、「裁判官が何を考えて、何をやっているのか」(=どうしないと裁判官に勝たせてもらえないのか)が、なかなか伝わらない。

 

なんだか、「警察の発展形」みたいな感じで、

「警察は分かってくれないけど、裁判官は分かってくれる!」みたいな考えの人もいる。いやそういう役所じゃないから。

「もう自分の手には負えないんで、裁判所に何とかしてもらうしか…」

そんな考えの人いる。

いやそういう役所でもないから。

 

市役所が、住民票を取るとか、戸籍を取るとか、出生届を出すとか、「できることが決まっている」のと同じように、裁判所も「できることが決まっている」のだけれど、それがなかなか伝わらない、伝えにくい。

ある意味、専門家である法律家として、それは説明できないといけないものなのだろうけれど、たぶん、法律家はあまりそれを伝えなくても何とかなってしまうところはあるのだろうと思う。

検察官や裁判官といった「役人」は、仕事の内容が「制度」として決まっているから、伝える必要がそれほどない。

弁護士は、「分かってくれる人(!)」か「分かってくれなくても任せてくれる人」「分かっていなくても任せるしかない人(?!)」等をお客にすると、これも伝えることが…必ずしも必要ではない(かもしれない。たぶん)。

 

でも、市役所のような組織に所属してしまうと…。

これを伝えて、分かってもらえないと、職員が「納得して動けない」

分からないまま弁護士の言うことに職員が従う、ということになると、納得して動けないからストレスや不満がたまる。弁護士の言うことをわかってもらおう、納得してもらおうとすると、時間と努力と職員側の「理解したい」という意欲が必要になる。

 

ううん…。

まあ、そこが難しいからこそ、児童相談所の後「リベンジ」で春日井市役所に勤めているのだけれど。

そして、それができると、やっぱりいいんじゃないかと思うんだけれどなあ…。

これは僕の夢の一つの形かな。

※追記 ああ、そうか。やっぱり職員に「理解」してもらわないと、それを現場でうまく「落とし込む」ことをしてもらいにくい…日々の行政の現場に、最適な形で法的な対応をうまく取り込んでもらうことが難しいから、やっていることだし、目指していることなんだな

「『餅は餅屋』と言っていたのでは、雪見だいふく(子どものころ好きでした)は生まれなかった」というのが、「行政と司法の連携」を目指すようになってからの、僕の持論ですから。

期待に沿う答えを返してあげられないとき

 法律相談に来てもらっても、相手の期待に沿う答えを返してあげられないときは、難しいな、と思います。

 とはいえ、本人の思いに沿ってしまうと、現状を変えようと(裁判等をやって)しまうと、かえって本人の望まない結果に結びつく場合はあります。

 僕としては、そのことも含めて正直に話し、本人に選んでもらう、あるいは選択の手助けをするほかないかなあ…と思っています。

 依頼を受けて活動した後、「こんなはずじゃなかった」と思われること、いただく報酬に見合ったものをお客にお返しできないことは、僕は嫌でしたから。

 「四路五動」「尺蠖之屈 以求信也」というように、「あえて動かない事」が実は「最善」であることもありますから…。

 

 とはいえ、長引く不況の中、少子高齢化で先行きが暗く、みんな閉塞感に苦しんでいる中で、相談に来てくださった方に「期待に沿った答え」を返せないことは、やはりちょっと悲しいのですが…。

 法律相談の方法には、他にもいろいろとあります。依頼人の心情に寄り添い、時間をかけてその感情を解消していく、カウンセリング型の法律相談もあります。

 女性の弁護士の先生で、離婚事件などを担当されると、そうしたやり方でないとなかなか事件が進められないことも多いと思っています。

 そして、最も無責任なのは…

 「勝ち目があるかどうか」あるいは「弁護士として何を依頼人に返すことができるか」を考えることなく、依頼人が最も望むであろう言葉を与え、いざ裁判になって負けたら、「僕が君が勝てると思っているけど、今回は裁判官が悪かった」等と口にする方法でしょうか。

 実のところ、営業的には最も理に適った方法です。依頼人の言うとおりにした方が依頼人も喜びますし、口を挟めば不満を持たれます。依頼人の言うとおりにして負けたとしても、なかかな弁護士を責めにくいものでもあります。

 ただ、僕は好きにはなれませんでした。「何がしたくて弁護士になったのか」「何の報酬としてお金を頂いているのか」がさっぱり理解できなかったので。

 とはいえ、人は残念ながら「自分にとって耳触りの良い言葉を好む」ものではあるので、そうした弁護士を人が求めるのであれば、それはそれで当然かもしれないな、と思うこともありますね…。